ゲームやゲームに関連した賭博行為はアジア諸国においても、他国と同様に歴史的に存在していたが、賭博行為を組織化し、商行為として顧客に提供する考えや手法は欧米列強による植民地支配がもたらした結果として生まれている。欧州列強の植民地支配化に伴い、麻薬と同様に賭博が支配や搾取のツールとして用いられたという背景もある。もっとも為政者の考えは国によっても異なり、英国は1850年代に植民地香港における賭博行為を禁止したが、逆にポルトガル領マカオがこれに乗じて、税収確保の為に、賭博行為を認め始めたことが組織的な現代的商業賭博のアジアにおける端緒ともなった。戦前戦後を通じ、一部英領植民地であった国々では、競馬やドッグ・レース、ロッテリー等の賭博行為が認められ、実施されてきたが、所謂バンキング・ゲームとなるゲーミング賭博(カジノ)は、一部の国のみに限定され、規模も小さかったというのが現実である。例えば韓国では外貨獲得の為の外国人専用カジノが駐韓米国人や日本人観光客を専らの顧客として1967年以降存在しているが、規模の大きなものではなかった。中国返還前のポルトガル領マカオでは、中国系マフィアが跋扈し、犯罪も多発し、健全なエンターテイメント市場からは程遠かったのが現実である。古いレジームが温存され、現代的な制度も規制もないままに事実として存在してきたというのが過去の経緯といえる。
アジア・オセアニアを一つの地域としてみると、現代的なゲーミング・カジノ制度が制定され、現在に至るエンターテイメント施設としてのカジノが創設されたのは、米国の経験を引き継いだ、オセアニア諸国(オーストラリア、ニュージーランド)からになる。1970年代初期、試行的な制度的枠組みとこれに伴う中小規模の施設による施行がタスマニア州やノーザン・テリトリー州で始まった。この成功を真似て、1980年代は、様々な州で、州都を中心に大規模なカジノを核とした複合施設が実現し、90年代には全てのオーストラリアの州でこれが模倣され、州毎に個別の制度ができ、これに伴い、各州に巨大なカジノ複合観光施設が実現した。ニュージーランドはこの動きに続き1990年代後半から2000年初頭にかけて制度と施設を実現している。オセアニアにおける制度と施設の特徴は、市場管理施策を基本とし、過度な競争を避け、原則州毎に独占権を付与した単一事業として構成し、事業者選定を国際公募により実施したことにある。一方、アジアを大きく変えることになるのは、2001年のマカオの中国返還とそれに伴うマカオ特別行政区における賭博制度の再整備と巨大なカジノリゾートを実現した投資であろう。中国大陸における富裕層の登場やマカオへの渡航規制緩和は、巨大なゲーミング賭博需要を生み出し、米国ラスベガスを越えるゲーミング賭博消費がこの地域に生まれた。但し、マカオは過去の遺制をも一部引きずって発展してきたことも事実であり、施行者となるゲーミング事業者は企業としては健全であっても、中国人顧客や一部中国系のゲーミング・プロモーターの行動は果たして健全といえるのかに関しては、懸念もある。尚、1990年代から2000年代にかけて、一部の東南アジア諸国(フィリッピン、カンボジア、ベトナムなど)では、中小規模ながら外貨獲得のための外国人専用カジノや地域住民も参加できる簡易賭博等も実践されており、制度が曖昧なまま、ゲーミング賭博が顧客に提供されてきたという経緯がある。また、マレーシアでは例外的に大規模の外国人専用カジノが巨大リゾート施設として1970年代より、エンクレーブ的に1ヶ所存在するが、華僑を主顧客とする外国人カジノと(カジノへは入れない)マレー国民のための巨大なリゾートとが同一化した施設類型となり、現代に至るアジアの複合観光施設の端緒とでもいうべき施設となった。2000年代中庸以降、これら市場の動きを更に変えることになったのは、シンガポールによるカジノを核とした巨大統合リゾートの実現であろう。シンガポールでは、ゲーミング・カジノ施設設立の政策目的が、単純な外貨獲得、税収から、より複合的な観光振興、地域振興、税収増・雇用増等の複合的な政策目的へと大きく変化したことを意味し、これが世界の基本的な趨勢となりつつある。
注目すべきは2000年代以降、アジアのゲーミング市場は諸外国と比較し、飛躍的な成長を遂げていることである。不況の中であっても、成長は鈍化したとはいえ、その潜在的市場は極めて大きく、時間の問題で、世界最大のゲーミング市場へと発展すると見られている。