オーストラリアの人口は約1,900万人で、英国の伝統を強く受ける文化・社会を維持しながらも、現在では大洋州の一国として、固有の文化と伝統を育んでいる。同国における賭博行為の歴史は建国の歴史と共に古く、庶民の間では昔から存在していたが、制度的にかかる賭博行為が認められたのは20世紀初頭、主に慈善行為に伴う財源獲得を目的としたロッテリーからである。
尚、制度的には商業賭博を認めるか否か、どう認めるのか等の判断は連邦法で定める内容ではなく、全て州法による州政府の管轄権限になる。これが為に、各州が個別に制度を設け、かかる商業賭博行為を認めてきた。ゲーミング・カジノの制度化は、比較的新しく、専ら経済不況に伴う財源の確保という観点から、米国等における経験を背景に、1970年代以降、80年代、90年代にかけて段階的にオーストラリア各州において新たな制度構築が図られ、実現したものである。もっとも、カジノのゲームを構成する一部の賭博行為はカジノが実現する以前より、私設会員制クラブにおいて特例的にその設置が認められたスロット・マシーンや、慈善活動資金を拠出するイベントにおいてビンゴ賭博を特例的に認めることなどにより、広く流布していたという事実もある。但し、いずれもが非営利法人であり、収益の配当は禁止され、特定の社会活動や施設の拡充等以外への収益の支出は制度的に禁止されていた。
上記経緯に基づき、現状、全ての9つのオーストラリアの州においてカジノ施行がなされ、国全体で13施設が存在する。その立地の過半はいずれも人口集積地である州都ないしは特定の観光地域に限定され、施行者たる民間事業者に排他的独占施行を一定期間付与する考えを基本としている。競争制限施策がとられたのは、限られた市場規模では、過度な競争は確実にカジノの事業性を悪化させ、これが社会的な悪影響をもたらしうる事が懸念されたと共に、確実に税収を確保するという狙いがあったからである。即ち、市場を管理し、自由な発意による施行を認めない施策になり、州内に巨大なカジノ施設を1ヶ所のみ認めるという州が多い。尚、オーストラリアにおける人口構造や産業は西側に偏している。これに伴い例えばカジノの施設展開も豪州大陸の西側にある州都や人口中心地区あるいは特定観光地区等に集中し、売り上げ・施設規模もこれら施設が他を圧倒する。
70年代にできた先駆的なカジノは専ら経済不況に伴う税収確保や経済活性化を目的とし、必ずしも経済的には恵まれていたとはいえないタスマニア州とノーザン・テリトリー州から生まれている。当初は思考錯誤的に始められたのが実体になり、規模的には中小カジノ施設になる。これら先駆的な施設は安定的な成長を遂げ、結果的に大きな成功を収めた。オーストラリアにおけるカジノの本格的展開は、その後80年代中葉の世界不況に端を発することになる。不況に伴う国内経済の低迷は、商業賭博がもたらす経済的なデメリット以上に、その積極的価値を認める方向に、為政者の政策的志向を変えた。賭博行為に対する否定的な政策を改め、観光振興、雇用創出、経済の活性化、地域再開発と共に税収増を図る目的で商業賭博を限定的に認める政策転換が図られたわけである。但し、各州、州都における開発行為が一巡した段階で、市場は飽和状態になり、その後新たなカジノ施設を制度的に認めるという方向性はない。
この様にオーストラリアにおけるカジノの本格的展開は1985年以降の事象になる。その大きな特色は、カジノを観光振興のひとつの要素としてとらえ、観光のランドマーク的施設として把握し、ホテルや大会議場、劇場、ショッピング、飲食店等を含めた複合的慣行施設として把握し、展開していること、施設の計画、実現に際し、これら施設群全体の建設が全ての前提となると共に、州によっては、例えば周辺公園の整備や、道路・橋、周辺アクセ等スのインフラ整備あるいはオフ・サイト工事と呼ばれ当該施設とは直接関係ないインフラ社会資本の整備をも含む等という考え方も存在した。
当該州政府や関連しうる地方政府にとり、カジノ施行とは、都市再開発の一手段でもあり、民間事業者による巨額な投融資を確約せしめ、観光の目玉となる施設を整備することが目的でもあった。その結果、都市に観光客を集め、消費効果を上げ、税収を確保しつつ、経済活性化を狙うことを考えたわけである。一方このゲーミング・カジノの運営を担う事業者は、その後の経緯により、段階的に寡占化しつつある。国内での新たな施設展開が難しく、市場も限定されるため、M&Aによる寡占化が進行したということがその背景にある。