賭博行為の施行や運営を民に委ねた場合、不正が起こりかねないと主張する意見がある。だからこそ賭博の運営は「公」が担うべきで、公的主体が担うことこそが不正を防止し、公正さを提供することになるという議論が,かって小泉政権の際の特殊法人改革の際になされたことがある。勿論これは既存の枠組みと利権を堅持したいという省庁側の主張でもあったのだが、当時、充分な議論はなされていない。果たしてこれは本当であろうか。問題の本質を理解するためには、不正が起こるリスクは何処にあるのか、何が違法行為や不法行為に繋がるか、如何なる考えと手法が違法行為を抑止することになるのかを正確に理解する必要がある。
① 投票券の売買により成立する競技に関する賭博行為は、投票に伴う人気が即配当に反映される為、売得金額は投票券の売買と同時にトータリゼーターと呼ばれる巨大コンピュータシステムに数値が自動的にインプットされる。また今や機械による投票券販売システムもあり、金銭を取り扱う部門では、人間が介在する余地は極めて限定されている。システム上の売り上げと実際の現金勘定が合わなくなれば不正が行われたことを意味するが、現実には殆どありえない。宝くじ等の場合には、同様にくじの売買行為なのだが、くじの印刷、配布、販売等が適切に管理されていれば、やはり不正が行われる可能性は限りなく少ない。いずれの場合も、業務を担う主体が公であれ民であれ、本来的には不正やいかさまが入りにくい仕組みになっているともいえる。この意味では実務を官が担うか、民が担うかは関係なく、ICT技術を活用したり、手順やルールを適切に規制し、管理したりすることにより、不正を防ぎ、公正さを貫徹することは充分可能であるといえる(事実、これらの業務のかなりの部分は事実行為としての民間委託が進んでおり、公が全ての業務を担っているわけではない)。
② 一方、競技の勝ち負けを賭けの対象とする場合には、特定の民間主体に委ねられる競技の参加・進行・運営に参加する主体そのものに不正が入るリスクはある。例えば競技参加者による八百長、やらせや薬物使用等、競技の進行そのものを外部的な要因によりかく乱し、本来の競技をさせず、予め勝ち負けを確実にしてしまう行為や審判等本来中立的な立場に立つべき主体が恣意的な判断をする行為等になる。これでは公正な競技は成立していないわけで、かかる操作をして、この情報を有利に利用し、一種の詐欺的な行為により、勝金をだまして取得してしまうことを意味する。だからこそ、競技賭博の場合には、特に競技の運営や競技に参加する主体に対し、厳格な規制を規定することが通例である。競技自体には公的主体は関与しておらず、全て選手組合や非営利競技主催団体などに包括的に運営を委ねているわけで、ここでも公的主体が存在するから「公正」が保たれているということにはならない。主体が公か民かということが問題ではなく、リスクのある行為を捕捉し、如何に効果的な規制と監視ができるかが本質的な問題になる。
③ 競技賭博の場合には、基本的には競技と賭博行為は、本来は別もので、一定の競技が開催され、その競技の帰結に賭博行為をする場が別途設けられていると考えた方が解りやすいのかもしれない。この場合、公的主体の控除率が高い場合、場外にて、控除率を低く設定し、顧客の勝分を増やすことにより、賭博行為を違法に開帳する行為がなされることがある。本来、公的主体にいくべき収益を横取りする行為である。ノミ行為と呼ばれるが、顧客にとってみれば、勝金が払えるならば、違法か適法かは関係ないとして、(罪の意識が希薄になり)かかる行為が裏で繁盛するということが現実に生じている。これは競技外で、競技を担う関係者とは全く関係なく、市場に生じるリスクであるともいえる。かかる問題は内部的には対応できず、これに対する対処手法は、厳格な監視と違法行為の摘発しかない。
上記で見たとおり、現在の公営賭博の実際の運営を考慮した場合、その経営や運営に不正やいかさまが入る余地は極めて限定される。競技のメカニズムが電子化、情報武装化され、人間が介在できる余地が極めて限定されているからでもあり、これにより公営賭博自体が安全かつ健全な娯楽となる要素を提供しているといえるのかもしれない。この前提に立つ場合、賭博行為の提供の在り方には、本来様々な選択肢がありうると考えることができる。基本的な枠組みを公的主体が提供し、メリットを公的主体が享受しながら、事実行為としての運営や経営を(健全な)民間主体に委ねても、公正さと健全さは確保できると考えるべきであろう。公営賭博の民間委託への動きは、実はかかる考え方に沿ったアプローチでもある。「公営」であっても、公的主体の立ち位置を「主催者」の立場に留め、実際の運営は事実行為として「民」に委ね、効率性を期することも一つの重要な政策的選択肢になっている。最早賭博=官業という固定観念にとらわれるべきではない時代が来ているといえるのではないか。勿論これを担う主体には、廉潔性が要求され、当然のことながら、反社会勢力や暴力団組織等が関与していないことが全ての前提となる。