我が国において認められている賭博の在り方は、公営賭博しかない。官も民もあるいは国民一般も、賭博行為は公的部門のみが主催者となることができるという従来からある考え方や発想は、単純な形で吹き消すことはできそうにもない。制度的にも公が独占して担う新たな賭博種という考えは、立法技術的には単純となり、従来の制度を模して、新たな制度構築を考えることは不可能ではない。かかる発想により、(政権交代前の)旧自民党政権時代に衆議院法制局は、自らの試案として「国営カジノ構想」を議員に(非公式に)提唱、一部議員がこれに賛同し始めたため、かなり混乱した時期があった。その後も、官僚組織や一部民間主体の中には、(殆ど少数派に過ぎないが)現在に至るまで、かかる国営カジノや公営カジノ構想を主張している向きもある模様だ。諸外国をみても、モナコやオーストリアは国営ではないのかという議論もあるが、これは正しい認識ではない。いずれも民間企業が国の認可に基づき施行する形態で、国は一部出資者であったり、間接的に株式の一部を保持したりしているだけでしかない。官僚組織が考える国営カジノとは、国が自ら施行者になり、従来の枠組みから大きく逸脱しない前提を取り、この前提の下で実際の投資や運営を事実行為として民間に委託すればよいではないかという考えである。
一見、カジノが実現できるならば、これでもよいではないかとする意見もでてきそうだが、これではおそらくカジノを賭場として作ればよいという単純な発想に繋がりやすく、適切な考えになるとも思えない。では、何が問題なのであろうか。下記諸点がその課題になる。
① 政策の焦点が歪むこと:
国が主催者となるケースは1ヶ所だけの、小規模の国のパイロット・プロジェクトなればありうるかもしれないが、ある程度の施設数を地域振興や観光振興等の政策目的をも踏まえて考慮することが前提となるならば、国が主催者たることは明らかに矛盾してしまう。国営カジノには「地域」や「地方」という考えは無い。また、国際観光振興や地域振興に資する多様なアメニテイーを含む複合観光施設や施設区域の考え方も無い。国が担う場合、地域社会や地域へのメリットやデメリットが忘れ去られてしまうこと、政策目的が単純な国にとっての税収増になりかねず、設置場所をどう選定するのか、かつまた地域社会の合意形成をどう合理的に取得できるのかに関しても、問題が生じてしまう。国は制度の創出者、規制者たるべきではあるが、自らが施行者になるべきではない。国ではなく、地方や地域の利益を全面に打ち出した制度の仕組みこそが、住民の支持を得られやすく、安定かつ安全、健全な施行に繋がることになる。
② 複合観光施設整備(統合型リゾート)実現の難しさ:
統合型リゾートの狙いは、地域固有の観光振興や地域振興のビジョンをもとに、地域の観光資源や観光特性に応じた複合観光施設を企画、立案し、その具体案を募り、実現することにある。この中でカジノ・エンターテイメントをも一つの集客の中核的要素として位置づけることになる。国が主催者となる場合、この本来考えるビジョン無しに、まずカジノありきになってしまう可能性が高い。例えば、付帯アメニテイー施設等は民のリスクによる民資金による整備、一方カジノ関連施設のみは、施行する権利と収益を一元的に国が独占する権利を前提にするという仕組みになりかねない。全体の施設整備は民のリスクによる民の負担、一方、カジノの運営に関しては、リスクと便益は分担するといっても、この仕組みでは、全体の施設整備投資に関する減価償却や投資に対する合理的なリターン、更新投資負担等の取り決めが複雑化し、関係者の利害関係がややこしくなる可能性が高い。また、もしこの取り決めが曖昧な場合、後刻係争になりかねない。
③ カジノの政策目的は収益の独占のみでは無く、多様な複合目的の実現:
収益を公的部門が独占することで賭博行為の存在を認めるという伝統的な制度的考えで、カジノ立法を考慮することは最早適切とは言えない。また収益のみがカジノの設置目的であるならば、確実に対顧客サービスはおざなりになると共に、高規格の複合観光施設(統合型リゾート)が実現できる可能性は低くなってしまう。必要なのはカジノそのものではなく、カジノがあることにより、付随的にもたらされる様々な施設や機能、サービスがもたらす経済効果、地域振興効果、観光振興効果、雇用増、地域経済活性化でもあり、更には、これらによる相乗的な経済効果・収益効果であるべきで、否定的側面を縮小化しつつ、かかる効果を実現できてこそ初めてカジノを設置することが正当化されるといえる。
国営賭博や公営賭博の考え方は、官による限定的な供給こそが社会秩序を維持できるという旧態依然とした考えに基づくもので、最早、現代社会においては、その価値は大きく削がれている。社会的秩序や公序良俗を維持するのは規律、規範の内実であって、担い手が公か民かではないとする考え方が現代社会における支配的な考えでもある。