社会規制となる賭博法制度に関する考え方は一国の状況や文化、歴史的背景等の差異に伴い、国毎に異なることが多い。一国の公序良俗や社会秩序を維持し、国民を保護することは当該国の専権であって、国際的に何等かの共通的な規範があるわけではない。この意味では、わが国の制度の在り方を考える場合、わが国の事情をまず考慮すべきであって、他国の制度を単純にそのまま取り入れることはあまり得策ではない。勿論類似的な側面もあったり、わが国においても取り入れるべき共通的ともいえる規範や制度の考え方があったりもする。法とその執行のあり方にも、似たような関係が存在し、踏襲すべき規範と必ずしも我が国の実態にはそぐわない規範とがある。法規定とその法規範がどの様に執行されているかは、国により事情が大きく異なることがあり、この背景を正確に理解することが必要となる。
例えば、厳格な制度や規制があっても、法の執行が甘い慣行の国である場合、悪いことをしても特段不利益はないということになり、人々は法や規制を無視し、守らなくなってしまう。これでも社会的な秩序は保たれるという考え方をとることになるのであろうが、問題が生じるか否かは内容次第となる。逆に法や規制は存在するが、そもそもその内容自体が曖昧な規定になっており、その執行を運用に委ねる国もある。法の運用を担う行政機関や公安当局に大きな裁量権限が付与され、運用レベルで厳格に取り締まれば問題は生じないという考えになる。この場合、何が違法か、違法ではないのかという判断基準が規範として明確ではなくなるため、為政者による制度の乱用が起こったり、適切な法の執行が行われなかったりすることもある。あるいは癒着や腐敗の温床ともなりかねない。法とその執行は、その国の事情や制度の性格に応じてバランスがとれたものであるべきなのだろう。
諸外国で実践されているゲーミング・カジノ法制の場合には、法の執行をかなり厳格にすることが一般的、かつ特徴的な事象になる。勿論、上記で述べたとおり賭博法制はありながら、法の執行が甘い国もある。例えば我が国の状況はどうであろうか。公営賭博関連法規は制度としては、しっかりしているが、法の執行自体は必ずしも厳格ではない。かつ、個別の賭博行為の特殊性が優先され、バラバラに制定されているため、様々な公法となる賭博関連法規に一貫した整合性が無い部分もある。公営主体が担う業であることから詳細を規定する必要性が少ないこと、必ずしも厳格な法の執行が無くとも、公正さと健全性を確保できる単純な賭博種であること等の事情があるためだが、この同じ考えをもしゲーミング・カジノに適用しようとすれば、まず制度として機能しなくなる。
ではなぜ、ゲーミング・カジノの場合、法の執行を厳格にするのであろうか。因みに、この考えが精緻に発展してきた米国では、ゲーミング・カジノを律する法律そのものが、性悪説にたち構成されている。即ち、法や規制を設ければ、自律的に参加者が法を守り、公共秩序は保持されるとは考えていないわけである。逆に、必ず法の抜け穴を考え、悪いことをする者がでてくるリスクがあると想定して、これを前提にした厳格な制度を作る。かつ、この法や規則を担保する厳格な法の執行があり、初めてゲーミング・カジノ全体のシステムが健全に機能すると考える。よって、法の執行のあり方は極めて厳格になり、甘えを許さない。勿論これは、歴史的に米国のゲーミング・カジノ法制はマフィアや暴力団組織をカジノから徹底的に排除し、カジノ自体を健全化、安全化することが最大の狙いであったという経緯があったためでもある。悪や組織悪は必ず、法律や制度が甘い地域を狙い撃ちにすると共に、法の執行が甘い側面があれば、必ずそこに組織悪が介在しかねないとするのが米国の為政者の基本的なスタンスであった。マフィアが現存した60年代ならともかく、現代社会ではマフィアはカジノから一掃されてかなり長い期間もたっている。この意味では、さすがに規則の一部は段階的に簡素化され、今日に至っているが、法の執行に関しては緩やかになったとは言いがたく、厳格な執行が継続されたままでもある。例え内部が健全化、安全化されていても、外部の組織悪を誘因する甘さがあったとしたならば、それ自体が大きなリスクとなってしまうからである。自由な社会においては、甘い規制では、必ず将来問題が生じるという確固たる考え方があるのであろう。この米国的な制度の基本的考えは、こと賭博法制に関する限り、様々な国により模倣され、現在に至っている。
勿論、国によっては、制度の厳格さは微妙に異なる。公共秩序や社会秩序を維持しながらゲーミング・カジノを施行する様々な規範やアプローチが各国で試みられているわけだが、何が適切な考え方となるかは、一国の状況にもよる。制度をどう創出し、一国の規制をどう考えるかには様々な選択肢があり、その国の政策によっても大きく異なってくるといえる。