賭博行為の政策的な考え方や制度は、時代の変化に呼応し、歴史的にころころその内容が変わってきたという面白い経緯がある。社会全体の風潮や、これを敏感に察知した時の為政者の判断次第で、認められたり、禁止されたりの繰り返しの歴史でもあったからである。また現代社会においても様々な考えが、国毎に混在しているというのが世界の実態になる。例えば我が国では現状禁止されているゲーミング・カジノは隣の韓国では認められているため、わざわざ韓国へ行きゲーミング賭博を楽しむ日本人は多い。国内ではダメでも2時間飛行機に乗れば、全く別の制度的状況があるということになる(因みに2011年レベルでの海外からの韓国への訪問旅行客は979.9万人で、内、日本人は33.6%となる。一方、カジノ施設訪問客は全体外国人旅客の1割程度といわれ、この内の約40%程度はわが国の国民という調査結果がある。年40万人内外の日本人顧客が韓国カジノへ行っているという計算になる)。
もっとも、本来こんな遊びは宗教的には原罪で、やるべきではないし、認めるなど問題外として、厳禁している国や地域もいまだ存在する。一方、ゲーミング・カジノは来訪観光客を呼び込み、外貨を稼ぐための効果的な手段とわりきってしまい、外国人のみが参加できる施設としてのカジノを認め、自国民の利用を禁止するというダブル・スタンダードの国もある。過半の国々では、原則は禁止となるが、特例的に一定の条件、一定の地域で、特別に定めた管理や規制のもとでゲーミング・カジノを認めている。勿論この考え方にも様々なものがあり、必要悪、どうせ裏で違法行為がでてきてしまうならば、表で認めて違法行為を根絶するという考えもあれば、本来推奨すべきものでもないのだから、認める代わりに高い税を課し、抑止効果を働かせるなどという考えもある(この考えをSin Taxという)。罪とは言えないかもしれないが、所詮悪、悪ならば、税を課して限定的に認めればよいとする考えである。
一方、最近では、このゲーミング・カジノを悪や罪とする考えから脱却し、ゲーミング・カジノ自体の積極的な経済効果や効用、価値を認めようとする政策的な考えが先進国で定着しつつある。かつこの考えは、賭博行為の否定的側面や地域社会の関心事にも適切に配慮しながら、バランスを考慮し、その価値を認めるという風に進化してきている。よって経済効果があるのだから認めればよいという単純な考えではなくなってきている。この背景には、数十年に亘る様々な国々における制度や規制の精緻化、その実践や経験により、ゲーミング・カジノから社会悪や組織悪、不正を限りなく排除することが可能になってきたという現実がある。適切に管理される場合、ゲーミング・カジノは罪でも悪でもなく、単なる成人の娯楽、集客力のあるエンターテイメント遊興にすぎないということになる。それならば、その集客力、消費効果、地域活性効果、雇用力、税収効果を積極的に認め、これを産業として認知し、支援し、育成するという政策的考えでもあろう。否定的な側面は管理可能であり、この前提に立ちながら、ゲーミング・カジノのメリットを最大限地域社会で吸い上げるということになる。この様に、欧米の現代先進諸国では罪から悪へ、そして悪ではなく、エンターテイメントという形で、段階的にゲーミング・カジノを支える政策概念を進化させ、国民や社会との共生を模索してきたのが現実でもあった。
では我が国は如何なる立ち位置にあるのであろうか。残念ながら、かかる議論もなく、考えの進化もない。公営賭博があり、遊技もあり、一定の明確な市場は存在しているのだが、これら市場や産業を認知し、健全に育成しようとする政策があるとも思えない。必ずしも明確とはいえない制度のまま、現状を単純に追認し、ありのままを認めて、淡々と施行しているにすぎないように思える。この意味では、市場を健全に発展させるという施策はなく、財源が確保される限りにおいて消極的にその施行を是認するということしかなされていない。必要なのは、まず現実を正確に認識・把握すると共に、現代社会における遊興としての賭博行為の在り方を明確に位置づける政策の在り方であろう。我が国も東洋のガラパコスにならないように、そろそろ制度の在り方に係わる議論を始めるべき時期に来ているといえるのだが、まだその声は低い。